コーヒーが好きなんです

缶コーヒーが大好きです。

ずっと缶コーヒーばっかり飲んでましたが、何本も飲んでいると、結構

コーヒー代がバカにならない、、、

 

1本とか3分ぐらいでなくなっちゃうからね。

日に5本とか飲むときもある。

 

1本185gとか190gとか。

 

それでどうにかならないかと探してみると、コンビニのプラ容器に入ってるコーヒーがあるじゃないですか。

あれが意外にうまい。

意外だし、缶コーヒーよりうまい!

しかも缶コーヒーより割安。

 

鞍替えしました。

グランデサイズなるものもあるんですよ。

量が多い。

最近はそれにシフトして、そればっかり飲んでます。

 

コーヒーってすごいなぁ

他人の力は借りずに、自力で解決してこそ成長するんだ!という人の行く末について

偉そうにタイトル付けしましたが、これは僕のことですww

 

こう信じ込んでいた自分の間違いに気づいたので、ご報告申し上げます。

 

自分で言うのもなんですが、僕は器用なので結構どんな分野でも自力で進んでいけます。

たぶん中の上程度ならどの分野でもできると思います。

だから、自分の力ならば絶対なんでもできる!

それこそが他人より優れている部分なんだ!

 

ずっとそう思っていました。

過去形なのは、それが間違いだったと気づいたからですね。

 

例えば海外の人に、海外のサイトを利用して物を売ろうとしたとき。

 

これは物販(転売)という分野になるのですが、例えとして聞いてください。

まず、これを完遂するのにどういう作業が必要になるか考えてみます。

 

・海外に売れて、利益の出る商品を探す

・英語サイトに登録する

・アカウント取ってすぐでは評価、信用がないので、取引実績を作る

・実績ができたら出品を始める

・出品をするには画像が必要なので、きれいな画像を自分で取れるような環境や道具を揃える

・メッセージが来たらもちろん英語で対応する

・売れたら発送するためのラベルを作る

・商品を梱包する

・発送するのに郵便局に行く

 

かなりかいつまんで書きましたが、それでもこれだけのタスクがあるわけです。

そしてこれらのタスクは全て自分でできることでした。

 

最初はできないことももちろんありましたが、自分ならできるという自信があったので、色々調べてやっぱりできたのでした。

 

初めての経験ばかりでしたが、これをすべてできるようになったときには、

 

やっぱり自分はなんでもできる!

 

という思いが、なおさら強化されたのでした。

さて、これだけのことを乗り越えたので、当然結果は出るはずです。

出て当然のはずです。

 

という書き方をするからには、みなさんの予想通り結果は出なかったわけですよwww

 

おかしい、、、

なんかおかしい、、、

なぜ結果が出ない?俺はきっちりやるべきことをやったのに、、、

意味がわからない、、、

 

こんな言葉が頭の中で堂々巡り。

終いには、やっとのことで売れた商品にクレームが来て返金。

絶望感に襲われ、僕の心は見るも無残にポッキリ折れてしまったのでした。

 

なぜでしょうか?

 

それは、、、

『すべて自分の力でやってしまったから』

これに気づいたのです。

 

他人に頼らないということは、他人の意見を受け入れたくないということ。

僕はそういう性格でした。(今も結構あります)

 

そんな人間が、自力のみで何かをやったときにどうなるか。

 

他人の意見を聞き入れないので、自分ができていると勘違いしてしまうのです。

できたと思っていたことが、実は全然できていなかったのです。

 

実は全然できていないことをいくら積み重ねても、そりゃ何も達成されないわけです。

だってどこかズレているから。

 

さらに、すべて自分でやることで、力も時間も分散されてしまい、本当に重点を置くべきところに力を割けない状態になります。

 

こうなるとまさに詰み。

僕は自分ですべて自力で、全力でやったことで、見事に詰んでしまっていたのです。

 

このことに最近やっと気づきました。

今でもこの失敗については全く取り戻せる状態ではないですが、おそらくこの『詰みパターン』に気づかせるために、神様が教えてくれたんだと考えています。

 

それからは、できるところで他人に頼っています。甘えたりしています。

そうすると、なぜか、なんとなくですが、状況が良くなってきたように感じるのです。

 

大事なことなので、備忘録としてブログに書いてみました。

 

ではでは!!

手相占いは男性こそやる価値あり?当たるのか、嘘なのか自分の検証結果を報告する

あなたは占いを信じますか?信じませんか?

 

こんなやりとりはおそらく子供の頃からありましたよね。

で、僕がこんな内容の記事を書いているのは、結論から言うと信じるようになった

からなんですよね。

 

まず、信じるor信じないなんて議論があるくらいだから、占いというものが

どうも根拠がないと理解されているということに他ならないわけです。

 

なんとなく科学的な根拠もなしに自分のことを言われれば、それはそれは信じられるわけもないですよね。

 

僕もそういった考えを持っていました。

いや、今でもそういった考えをする派の人間です。

 

情報が大事になった現代だからこそ、なおさら信じるには根拠が必要です。

 

”同じ容積の水と硫酸では、硫酸の方が重い。

それはなぜかというと、硫酸の方が比重が大きいから。”

 

こう言われれば信じることができるし、周知の事実でもある。

ここに疑問は抱かないわけです。

このように、理屈や理論で説明がつくものだけは信じる。

とりあえず僕はそういう理屈派の人間です。

 

一方で、占いには理屈が存在しない(ように感じられる)から

当然信じられないんですよね。

 

でも、そんな僕が手相占いをしてもらう機会があったんです。

もちろん、信じるつもりは毛頭なく、何を言われようとも

どうせ作り話みたいなもんだろうと、高をくくっていたわけです。

 

なんせ芸能人が占い師に洗脳されて人生めちゃくちゃになった、

なんてニュースもあったぐらいですからね。

むしろ占いを蔑んだ目で見ていた部分もありました。

 

そんな僕が手相占いをやってもらった結果、、、、、

 

当たる当たる!!wwwww

 

やべえ、むしろ外れてることが見つからないwww

 

手相占い恐るべし、、、

 

てな感じで見事にコペルニクス的転回を体験しちゃった次第なんですよ。

 

それから占いについて調べてみると、すべてではないとは思いますが、

基本的には統計学が基になっているのだそうな。

 

統計学、、、

 

めっちゃしっかりした学問やないの!!www

そんな学問様がバックにいらっしゃったとは、、、

根拠が〜とか言ってすみませんでした!って感じ

 

まあこれも占いの種類にも、占ってくれる占い師にも依るところがありそうな

感じだけども。

それでも占いというものにハートを撃ち抜かれたのは事実。

 

当たる当たる!!

からの〜

『○○歳ごろに転職でもするのでしょうか?それとも自分で経営を始めるのでしょうか?そんな動きが現れてますね』

 

みたいな、とても具体的なことまで言われるもんだから、それさえも簡単に信じてしまうわけです。

なんだか危ないワードが並び始めてきましたね、、、

でも、それはわかっているんです。

 

そんなこと当然踏まえた上で、占いを利用してみたら良いのでは?

今までの自分では全く予想もできなかった未来が、垣間見られる。

例えばそれが良い方向なら、とてつもなくモチベーションが上がってしまうんですよ。

 

逆に悪い方向なら、それを真摯に受け止めて、何か対策を取っていくこともできるんですよ。

 

何もわからない手探り状態で頑張るより、よっぽど有意義だとは思いませんか?

手探りで頑張り続けるとどうなるか、知っていますか?

 

失敗した時に立ち上がれないんです。

これはやっぱり自分には向いていないことだったんだ、、、

とか言って簡単に退場しちゃったりするわけです。

 

でも、自分で選んで挑戦してみたその道が間違っていないと

知っていたら(思い込んでいたら)、どうでしょうか?

 

なかなか挫けないんです。挫折する確率がすっごい低くなるんです。

 

それは、自分はこれで合っている!

 

と信じる(思い込む)ことができるから。

 

人間は失敗したときに退場するんじゃないんです。

失敗して心が折れてしまったときに退場するんです。

 

どんな才能があっても、それに気持ちが伴わない限り、その才能は力を

発揮しません。

 

むしろ、

 

『一番得意としていた分野で失敗した、、、

これで無理ならもうどうしようもない、、、』

 

なんて発想に陥って、まじで永久に退場してしまう可能性すらあります。

 

一番大事な『気持ち』の部分を強化してくれる占いであれば、逆に信じて行動しないともったいないと思いませんか?

 

私は思います。

 

ではでは!!

 

お金って結局のところ何者なんですか?

有史以来、人類の心を鷲掴みにしてきたもの、、、

 

『お金』

 

ですね。

 

ある時は人を幸福にし、ある時は人を滅ぼしてしまう、不思議なモノ。

 

僕も『お金』については色々と考える部分がある。

現時点でこれが正解なのかな〜ってのが、やっと自分の中でできてきたので、少し聞いてもらえればと思う。

 

まず、資本主義社会ではお金がないと基本的に生活できない。

これは誰でも共通のことだと思う。

生きる上で最低限必要なのは、衣食住ですね。

 

【衣】

服ですね。服の機能といえば一番は体の保護なわけです。守りたい部分に身につけるものなんですね。それがまあ現代では服を着るのが当たり前だし、むしろ日本では服を着てないと一発で捕まります。猥褻物陳列罪ってやつ。

 

それで、今着ているものについて考えてみると、なんと一つも自分では作れないじゃないですかwwww

 

いや、中には作れる人もいるのは知ってますよ。

でも基本的には作れない。

お金を払って買うしかないですよね。

 

【食】

ご飯と一口に言っても色々あるので、ここは日本人として、健康的な日本食を例に考えてみましょう。

 

白米、味噌汁、納豆、漬物、焼き魚。

異論はないと思いますww

 

ここでまた自分に問うわけです。

 

『この中で自分が自力で作り出せるものはあるだろうか、、、』

 

はい、ありません。

米を作る田んぼなんて持ってないし、あったとして、米をつくる知識、その他道具やら材料やらもあったとして、、、何ヶ月待ちですか?www

 

この議論を繰り返すと、味噌汁も納豆も漬物も焼き魚も、な〜んにも自分では作れない。

つまりお金を払って買うしかない。

 

【住】

家ですね。

問答無用で作れません。

買うか借りるかしなきゃホームレスですね。

 

お金払います。

 

 

生きる基本の衣食住の、どれも自分一人では充足できないことが証明されました。

 

簡単に考えると自分ではできないけど、それをできる他人はいるわけで、その人にお願いして、作ってもらうことになります。

当然他人はただでくれることはないので、対価としてお金を払います。

 

つまり

お金=他人の力

 

という式が成り立つと思うんですね。

 

いくら諭吉さんをたくさん持っていても、それを他人の力と交換しない限り、何も手に入らないわけです。

つまり、他人の力を借りるためにお金が必要なんですね。

 

お金、お金って言うけれど、結局は他人が提供するモノやサービスなんだということがわかりました。

 

自分にとって役に立つモノやサービスがあればお金を払うわけです。

むしろお金を払うから下さい、に近いかも。

 

ここで、『他人』を『自分』に置き換えたらどうなるか。

 

『他人』にとって役に立つモノやサービスがあれば『自分』はお金をもらうことができる。

 

こうなると思うんですよ。

 

お金を稼ぎたい。これはみなさん同意見だと思う。

 

じゃあ何をすれば良いのか。

他人の役に立つようなモノやサービスを提供すれば良い。

 

最近になってやっと気づいたことだけど、この部分を無視した行動では、やっぱりお金稼げなかったな〜、、、、

 

これからはまず、誰かにとって役に立つという前提条件を忘れないようにしたいと思いました。

逆に、これさえ守れていれば必ず収入の道は開けると思う。

 

お金の話でした。

 

ではでは!!

 

英語を小学生から習うメリットを教えて欲しい。

時間とともにグローバル化は進む一方なので、まあ英語が大事なのは知ってるわけですよ。

日本に住んでれば嫌でもわかるけど、いろんなところに外国語表記が増えてますよね。

やっぱりそれは日本に来る外国人が増えてるって意味なんだろうね。

外国人が来てくれることで商売成り立っているなんて人もいっぱいいるんだろうと思う。

よっぽどの田舎でない限り、街を歩けば必ず外国人は目にするよね。まあそれがグローバル化ということなんでしょう。

 

そういう背景もあって英語はこれから、ますます重要になるのも間違いない。

話し相手が外国人になる可能性がどんどん高まるからね。

英語を母国語とする人が多いし、第2言語として身につける人も多い。

じゃあそれにならって日本人も英語話せるようになりましょう、ということなのかな?

 

細かい背景までは知らないけど、大まかにはこういう理屈で小学生から英語を学ぶことになったんだと思うし、間違いではないとも思う。

 

じゃあなんでこれに疑問を持つのか、僕なりの理由を書いてみようかな。

 

僕は小学1年生のときから英語の塾に通っていたわけだ。

頻度は週に1回。今の義務教育よりは頻度は少ないと思うけど、ネイティブの先生が開いている教室だったから、毎週ネイティブの英語を聞いていたわけです。

週1回ながらも中学2年生ぐらいまではやっていた。

成績の話なんて意味ないとわかっているけども、そのおかげか、英語の成績は良かった。

でも、ただそれだけなんですよ。

いまだに英語なんか話せないんですよww

 

20年ほど前にこういう英語教育を受けた人間の実感として、、、、

小学生から英語ならっても絶対話せるようになんてならない!!!!wwwww

 

まあ学校のテストとか受験対策には役に立ったけどね。

学んで損はなかったけども、英語を話せるようになるという結果には一つも貢献されてないのが事実だよね。。。

 

最近知ったんだけど、小学生から英語を学んでも(相当英語漬けの日々を送らない限り)絶対に英語を話せるようにはならない理由があるんだそうです。

 

それは、音の種類の数、そしてその音を発音できるのが3才ぐらいまでだってこと。

 

なんだか細かいことは忘れちゃったけど、とにかく英語ってのは日本語に比べて音の種類がとても多いらしい。

さらに、その音の違いを聞き分けて発音できるようになるのが3才ぐらいまでだと。

 

つまり話せるようになるのが目的なら、小学生で始めてもとっくに手遅れだという意味ですよ。

日本人が英語を話すのが、ほぼ物理的に不可能な理由があったのでした。。。

 

それでタイトルのような疑問が当然出てくるわけだ。

不可能なものに対して時間を割いて、他に身につけるべきものが身につかない、ということになりはせんかね?

 

英語の時間のために例えば国語の時間が削られていたとしよう。

英語の授業のせいで、必要な国語の知識を学ぶことができない状況もあるよね。

その場合どうなるかっていうと、国語の知識が低下するだけだと思わない?

無駄とは言わないけど、それ以上にきちんとした日本語を話せるほうがまだましじゃないのかな?

昔のことわざとか、漢字とか勉強してた方がよっぽど有意義なんじゃないかな。

小学生だから、国語の基本を習うわけだよね。

誰でも知っていると思うけど、基本がないとその後何も発展していかないんですよ。

応用に行けないんですよ。

基本を削るだけの結果になりはしないか?

と、一人ひそかに危惧してたりしてなかったり。

 

まあ国の決定なので従わざるを得ないですが、何かしら対策は考えないといかんのかな〜って思いますね。

 

ではでは!!